top of page

3.富士登山道の起点として

 富士登山はいつ頃から始まったのか、その歴史は平安時代末の修験僧により始まったと言われ、須山口登山道は1200年ころよりその存在が確認できます。

文明18年(1486年)に京都聖護院の道興法親王は東国を巡る旅に出ます。

道興さんは京都から越後(新潟県)へ出まして、越後から信濃(長野県)を回り江戸に出る旅をします。

その旅の間で見たり聞いたりした事を沢山の歌に詠んだ旅行記「回国雑記」を残してくれました。

その旅行記の中で、道興さんは箱根を越えて三島の宿から須山の地に至った下りが書かれていました。

そして「すはま口というよりふじのふもとにいたりて」と書かれた後に「よそにみし ふじのしらゆき けふ分けぬ こころのみちを神にまかせて」という一首が詠まれていました。

この道興さんの「回国雑記」によって、少なくとも室町時代には須山に須山口と言われる登山道があった事が分かります。​ 当初は東口と呼ばれていましたが、須走口の増設に伴い南口下宮となりました。

​その後、江戸時代に入ると富士講を中心に一般の人の登山も盛んになり、須山口登山道は多くの人で賑わいました。

その登山者の宿泊を含め,様々なお世話をする「御師」と呼ばれる家が須山に12軒あったと記録が残っています。

しかし、その須山口登山道に大きな悲劇が起ります。

それは1707年の11月、宝永の大噴火と呼ばれる噴火が宝永4年に、ちょうど須山口の登山道が通っていた富士山の中腹に起りました。

この宝永の噴火によって須山口登山道は吹き飛んでしまい、それから約70年この登山道は世の中から忘れられてしまう運命になります。

その後1780年に須山の御師を中心とした人達の熱い思いと努力で、須山口登山道が再開発されます。

この再開発された登山道によって再び須山口登山道は賑わい取り戻し、復活してから20年後の御縁年の年(1800年)には5398人もの登山者が須山口から富士山に登ったと記録が残っています。

bottom of page